不動の左SB都並が1993年10月のアメリカW杯最終予選でプレーすることは不可能――。そのことを知っているのはオフト監督、清雲コーチらスタッフに主将のDF柱谷哲二、そして都並本人だけだった。最初に代役候補として招集されたのが、ジェフ市原所属のDF江尻篤彦だった。同年9月のスペイン合宿に帯同した江尻は、宿舎で都並と相部屋となった。もちろん「オフト日本の左SBについてあれこれ伝授してほしいというオフト監督の意図だった」(都並)。しかし、江尻は合宿最初の練習試合に先発したが、後半からセンターバック(CB)が本職のDF勝矢寿延(横浜M=当時)が入った。左SBでプレーするのは初めてだった。
■「バックアッパーは江尻が共通認識だった」
六川則夫「江尻さんは守備力を買われての代表入りだったと思いますが、合宿中の練習を撮っていても<ラモスからパスが出ない>ので江尻さん自身、どのタイミングでオーバーラップすればいいのか、中に絞り込めばいいのか、分からなくなってピッチ上で孤立無援となり、日に日に表情から生気が失われていくのが、カメラのファインダーを通して分かりました」
森雅史「(熱狂的サポーター集団の)ウルトラスが中心になってW杯最終予選の前、代表選手それぞれの応援チャントのCDをソニー・ミュージックで制作して販売。ヒットチャートの20位くらいに入ったのですが、左SBとして都並さん、江尻さんのチャントは収められていましたが、最終予選前に招集されてドーハで戦ったDF三浦泰さんのチャントはありません。都並さんのバックアッパーは江尻だ! それがサポーター仲間の共通認識でした」
■「カズの足がもう数センチ長ければ…」
最終予選初戦のサウジアラビア戦はスコアレスドロー。2戦目のイラン戦は、三浦泰の背後の左サイドを何度も何度も攻め立てられ、結局は1―2で敗退した。ここでオフト監督は決断した。3試合目の北朝鮮戦に勝矢を先発させ、4試合目の韓国戦、最終戦のイラク戦と3試合連続で勝矢をピッチに送り出した。そして――。イラク戦のロスタイム。イラクの左CKは、予想外のショートコーナーだった。勝矢が対応しなければならないエリアで懸命に右足を伸ばし、何とかクロスを阻もうとしていたのは左FWの三浦カズだった。
六川「イラク戦の後半途中から<日本に悪い流れがきている。日本のゴール側で何か起きる>と本能的に悟り、終盤になってタッチライン際をテクテク歩いていき、日本ゴールの左側に陣取りました。終了間際のショートコーナーは意外でしたし、ボールを受けた選手が切り返したのも意外でした。そこにいたのが三浦カズだったことにもビックリしました。ともあれ三浦カズの足が、もう数センチ長くてボールに当たっていたらクロスは上がらず、日本を奈落の底に突き落とすヘディングシュートもなかった。個人的にも貴重な一枚となったわけですが、試合中の移動などで露出がズレていたことが悔やまれます」
都並「ベンチの右端で試合が2―1のまま終わるのを待ち構えていたのですが、あの瞬間に時が止まってしまった感覚でした。ゴール裏のサポーターに挨拶に行ったのですが、自分ひとりで行ったのか、それともチームで行ったのか、全く覚えていません。ピッチの上にへたり込んでいるラモスさんの背中の背番号10がとても印象に残っています。あのドーハの悲劇というのは、いろいろな意味で日本サッカーを大きく成長させてくれたと思います。そもそもケガ人の僕がチームにいてはダメなんです。あの時代、そうはっきり言える人がいなかったんです。ケガをしているけど何とかなるだろう、各ポジションのバックアップが薄いけど何とかなるだろう、日本代表は強いからW杯に行けるだろう――。昭和から平成にかけた時期、そんなアバウトな感覚が残っていました。ドーハの悲劇を経験した1993年というのは、日本サッカーの大きな転換期となりました。ドーハの悲劇の戦犯である自分が生き証人として、今後も語っていきたいと思います」
何回も録画見るがほぼ80パー武田が悪い
あとの20パーは運が悪い カズは嫌いだがなんの責任もない
三浦泰→勝矢
福田→ハセケン
高木→中山
大幅に入れ替えたんだよな、北朝鮮戦から
ヤス1人がアレだったわけではない
>>9
高木は累積
福田は猛烈な下痢で使えなかった
調子が悪くてもこだわって使い続けた高木と福田が最終予選終盤で結局ベンチスタート。
オフトの限界点だった。
あの試合もゴンに替えて武田じゃなく北澤だったらな。
福田が使えないのは痛いよな。。。
試合を見直したら戦犯はラモスだった
前に前にボールを配給してはカットさせてピンチに・・・
森安が何度も奪い返して何とか凌いでいた
武田がシュート打たずにコーナでキープしてたらと言うが
当時はそういう時間稼ぎはしてなかったのでしょうがないけど
キーパー正面に打つのはこの馬鹿くらい
>>10
自分から独白してるからな
脚が全然動かなかったらしい
と思っている人もいそう
そのレベルの代役すらいなかった
時点でワールドカップなんて出れなくて仕方なかった
>>20
これはあるな
ただ今の枠の数ならドーハだけでなく
木村和司のころで出場できてた
今はボール回しして時間稼ぎが当たり前だから
今はインテルでやってた長友だからな。
素直に認めろ。
当時ってまだそんな概念なかったか?
戦術徹底させる
時間とか選手の能力も足りないって感じだろう
併用できる器がない
大迫がいたらって思うけど
あの時代じゃオーパーツだな
まあドーハの悲劇は
続く4年後のフランスワールドカップ予選のほうが
悲劇だったし最悪だった
最後ようやく出場権取れたが
Jリーグは潰れる寸前まで追い込まれ
サッカーに対する空気も悲惨な状態だった
なんだろう冷めてる空気というか
ホントにホントに窮地だった
次の2002も共催にされ
フランスワールドカップ出場逃すと
金で買ったワールドカップ出場権という汚名をずっと背負う状況になるところだった
だからガチのその顔面蒼白が見れる状態だった
だから国立で暴動も起きた
ホントに凄い体験だったよ
ホント、フランスW杯予選はマジ中のマジで壮絶だった。
ジョホールバルの歓喜なんて日本サッカー史でぶっちぎりの一位でしょ。
あのころはW杯がW杯らしかったわ。今なんてほとんどお祭り扱いだし。
>>45
と云うかフランス大会逃してたらJリーグ死んでたと思うわ
だからこそアメリカ大会は出なきゃならなかった
サッカーくじもすぐやってたらフリューゲルスつぶれていない
武田のロストは森保が取り返してる
ロストフの悲劇みたいに、最後の試合、最後のプレーを注目するのはね。
ドーハは中1日の5連戦で、これにラモスが全試合フル出場したっていう
おとぎ話だ。
アジアって2枠だっけ?3枠だっけ?
出れる国が少なかったのは事実
その影響はデカイよ
2枠
そもそも本大会出場枠が24
まるでメンバーのほとんどが故人になってる昔の話みたいだな
後数秒で悲願のW杯出場だったのに
レベルが低い?今と比べてどうすんの?ナンセンスなこといってんじゃねーよ
当時はあれが最高だったし、その中で戦ってたんだ
それを否定することは誰にも許されない
あの展開じゃなくても点取られてた可能性高かったんじゃない?
想像以上に過酷な環境だったんだろうね。
>>78
あれはもらい泣きするレベル
隣の女子アナも普通の状態じゃなかった
まさに放送事故
俺 膝抱えて体操座りで観てたが一瞬なにが起きたのか理解出来なかった
「ん?…え。もしかして大会出られなくなったの??ガーン」って
膝抱えたまま後ろにゴロン
よく次の日 普通に会社行けたと思うわ
16の夜、友人と缶ビール開けて祝杯しようとしたら、あのゴールだった。
そんな俺も、とっくに40越えた。
>>91
ヒロミがショック受けてるとき台所のタモリは
みんなそんな顔してどうしたの
おの時、堀池いたけど左サイドバックじゃないか?
>>96
テレ東でみてたけど、大仁さんがゴールの瞬間凄い声出してた
あうっ~て感じの呻き声w
その番組は知らんがつべとかの映像では柱谷の兄貴がなんが殺人犯みたいな表情だったな、完全な放送事故
当時は世間的にも飲酒におおらかだったなw
タバコもおおらかだったよw
今の高校生飲まないのかね?
当時は日本人の評価が低かったから海外移籍とかはなかったが、相馬や名良橋は海外でもかなりやれたと思うけどな
アンブロカップでイングランドやブラジルと対戦した時も相馬は評価されてたな
鹿島の賀谷とか広島の片野坂とかそのへんは?
そもそも勝矢自体が左サイドでは候補ですらなく無理矢理ハメただけだから
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